ワンテーマとするほどではないですが、本(書物)と読書に関してちらほら書いているページを集めました。プロフィールや第一回の時、また、たまに記載していますが、以前は活字中毒の類に入るようなタイプでした。今でも本はたまには読みますが、本よりも専ら図鑑のようなものが多いような気がします。
19歳までは一般的な本や学術書はほとんど読みませんでしたが、相当の数の図鑑と百科事典のようなものを読みあさっていました。小難しい本もいいですが、「サッカー上達法」のような本やゲームの攻略本もおもしろいですね。
堅苦しい本にアレルギーを起こしそうになるのなら、簡単で単純明快な本を読んで、読むことに慣れればだんだん面白くなってきます。電子辞書などがあれば、理解力が深まり、読解力も語彙量もどんどん上がっていきますから、辞書は良いパートナーです。自分が読みたくなるような本は大型書店などで探せば絶対にあります。
本とマンガ
思い返してみても、嫌いな本はありますが、嫌いなマンガは特に思い浮かびません。印象に残っていないだけかもしれませんが、「頭悪いなぁ」と思う思想家や学者はいても、そういうふうに思ってしまう漫画家は見当たりません。
漫画は古今問わず、良い作品がたくさんありますね。
最近また手塚治虫氏の漫画を読みました。
ひとつの寓話
もう10年以上も前に一度読んだ作品ですが、改めて読んでみるとやはり今の「後々のキャラ化のグッズ化」を意図していない純化された作品だけに、作者の意志がよくよく染みこんでいると感じました。
そんなことで読んだのは手塚治虫氏の「ブッダ」です。
もちろん手塚氏ならではのブッダですが、下手な本よりもよくよく伝わるのではないでしょうか。
核心に迫るポイントはぼかしてありますが、わからなくてもせめて感じる必要があるポイントだけは非常にわかりやすく描写してあります。
哲学する 2014
どうしてお勉強の本というか人文科学系は「誰々の何々についての某」が多いのでしょうか。確かにある程度のことは既に語られていて、特に引用していかなくても結局同じようなことを別の言い回しで語っているだけになります。
しかし、研究機関たる大学が「参考文献を示しなさい」とばかり言うので結局論文の類も「ニーチェの云々」、「サルトルの云々」というタイトルがつきやすいですね。それが本として出版される時には売るためにこういった有名人の名前を使ったり、代表作を使ったりします。
「それはあなたが考えたことですか?参考にした文献があるならばそれを示しなさい」と言うのはいいですが、その参考文献も誰かの本を参考にしている場合は、どんどん芋づる式に膨らんでいきますね。ソクラテスやプラトンに、一本取られてしまいそうです。
考慮せよ
本を読めば、本を読む前とは別の人間になる、よく言われるキャッチコピーのようですが、確かにある経験をする前とした後では、当然に別の意識を持っているので別の人間になります。
良い方向に行くとは限りませんね。どんどんトンチンカンが加速するかもしれないことを念頭に置きながら、読んでいったほうがいいでしょう。
読書の秋
たくさんの本を読むこともいいかもしれませんが、同じ本を何十回も読み返すのも結構楽しいものです。かつては理解不能だったり、ある側面からの解釈しかできなかったものが、視点が変わって理解できたり、また、逆に混乱したりするものです。同じ本を読むことはそういった点が非常に楽しかったりします。
それまでは実体験として経験していなかったようなことを経験した後に、ふと気づいたりしますね。そのような捉え方の変化のあるような書物にはなかなかめぐり逢えませんが、見つけた時はおそらく寝る間を惜しんで読み耽ってしまうでしょう。
お盆休み
夏は本が売れないことで有名ですが、先日コミックショックで買った古本がたくさん山積みになっています。
本の価値は値段と比例するものと比例しないものがあります。最近では立ち読みをさせないようにと雑誌などに細工が仕掛けてありますが、せめて目次くらいまでは読ませて欲しいですね。
RUNNERS HIGH
なんでもそうですが、集中したりするとハイになる傾向があります。
読書然り、暗記然り、もちろん長距離走もです。
一瞬来る「嫌だ!」を乗り越えるとただただ爽快になります。
ただ、それの虜になってはいけません。
メガネと視力
特に「かなりの古本」は漢字が画数の多い旧字で、しかも原始的な明朝体、しかも文字は小さい、という絶望的な読みにくさです。ただでさえ旧字と旧仮名遣いで苦戦しているところに、そんな試練までプラスされたらヘトヘトになります。とりあえず本を読むときだけはメガネをすることにしました。
文字は小さいのに、余白はたくさんあるという心遣いのなさにもっと憤りを感じました。
辞書
普通、辞書はひくものであり、国語学者でもない限り、辞書などを「読む」ことはないでしょう。
有名な話として、ノーベル文学賞のあの人は、広辞苑を3冊ボロボロにするほどに読んで、単語を暗記したそうです。
電子辞書で暇つぶしするだけでも結構面白いですね。
人類の新しい教育のために
正直、義務教育での国語の授業は、どういう意味で授業になっているのか不思議なことがあります。数学なら新しい公式が出てきた、とか物理なら今、運動エネルギーと位置エネルギーをやっている、というのが非常にわかりやすいですが、国語の授業はよくわかりません。
金田一春彦氏による「国語そのもの」の本や、論理性を明確にするという意味で、野矢茂樹氏の本などが良いかもしれません。「は」と「が」の違いや、「思う」と「考える」の違いなどを知ると、なんだかスッキリした気分になります。
習慣の穿鑿
同様に気をつけるべきなのが国語や漢字の勉強です。そういうものを勉強するときは、必ず何か題材があります。その中で使用される文章には思想が潜んでいます。漢字の勉強をしているつもりが、知らぬ間に刷り込まれていることもよくあります。
その危険性を教師の方はわかりながらやっているのでしょうか。
第33回投稿記念
出典については触れないと言っておきながら、たまに示しています。
ひとつご注意頂きたいのは、変な宗教団体のように、文章の根拠、権威付けなどを狙ったものではなく、「詳しくはツァラトゥストラで」みたいな感じで、「もっと詳しく知りたい」という場合の「もしも」のために、だいたいの発言者を記述しているにとどまります。
当然のことながら、根拠として有名人の名前を出されて説得されてはいけません。「医師が認めた新成分」と言っても、真逆の意見を言っている両名が医師の場合がよくあります。学者であっても学派の闘いがあるのですから、中身の理屈とだけ対峙するべきですね。
どれほどの力が現在思想家の中に集まらねばならぬか
陶芸家、噺家、という言葉を見てもなんとも思いませんが、「思想家」という言葉には「関わらないほうがよさそう」という感じがします。その原因は人生の根幹に関わりそうな事柄だからでしょう。
その変な感じには、やはり「学問なのか?」というような点が大きく占めているような感じがします。体系的に分類したりすることはできますが、哲学や思想というものは、思考の行き詰まりであり、また、ひとつの可能性であり、一種の概念でしかありません。
論理学者にはそんなことを感じないのに、哲学者、という言葉にはいつまでも違和感を感じます。一種の偏見でしょうか。いやいや、ただ単に、論理学者の場合は、「論理学」と「学者」を分離して考えられるのに「哲学者」はそれそのものが、ひとつの単語のように感じるからでしょう。
われわれのすべてが非理性的である点
これは会社の朝の朝礼でトンチンカンな上司が雑誌で読んだ「名言」を全然消化しないまま、ひとまずカッコをつけようと演説する光景に近いものがあります。
芸能人やプロスポーツ選手などの名言が多いですね。あまり参考になりません。
いかなる道徳が退屈させないか
下手に教科書を使うよりも、ゲームやアニメ・漫画にしたほうが覚えやすいというある意味での「教師不要論」もあります。歴史に関してはだらだら教えられるよりは図書館の子どもコーナーにある歴史漫画を読んだほうが覚えやすいというものです。地理なら桃鉄、戦国時代なら信長の野望と相場は決まっています。
どうして面白くなく感じるのでしょうか。それはお役人の発行する「申請書類作成の手びき」のような、情報だけを載せたような本だからです。そこにストーリー性があれば、簡単に面白みが出るでしょう。
よくわからない分野の人たち
セミナーでご商売をされるのは結構なのですが、個人的にはあの手のセミナーでお金を取る人を「ブックオフで100円の本×3の人」と勝手に定義しています。
ただの偏見で勝手な解釈なのですが、彼らにとっては本を一冊読むのがすごく労力のいることなのではないかと思っています。
自分が説法のようなことをしようとしている人が、自分以上の知識をもっているかもしれないことを念頭に置きながら話して欲しいですね。そんなことが頭をよぎらない事をまずは絶望しましょう。
懐疑の懐疑
そんな数学者として有名なパスカルもやはりセンチメンタルな青壮年期を過ごしたのでしょうか。パンセという遺作はなかなか面白みのある書物です。実はたまに引用しています。もしかしたら一番最初の愛読書かも知れません。中公文庫版を持っています。
今思えば、なぜパンセを読んだのか、いつどこで買ったのか(おそらく19歳の時でしょう)全然思い出せません。
舞台の道徳について
舞台で繰り広げられる道徳的説教。さらに、その「シリアスな場面」の内容が、人生哲学を説くような場面の時、嗚咽感はヒートアップします。それがハムレットなら許せますが、創作された深みのない「テレビでよく使われそうな体育会系的哲学」ならば困りモノです。
テクニックにばかり走り、何かの原典があるのならその原典の読解力や解釈力、創作ならば元の思考力などに問題のある浅い人生哲学です。
どういうことかすぐに言葉で説明できるようなものなら、わざわざ別の形で表現する必要はありません。やってもいいですが、それは、学園祭で歌って踊られて、見せられた方は困っているということを思い出してから考えて欲しいですね。人からお金をとってまでやることなのか、ということです。
特定の書物
ドグラ・マグラ
先日読んだのはドグラ・マグラです。著作権保護期間が切れているため、青空文庫にあります。
文自体はそこそこ長いですが、すぐに読めます。どんな内容かは、読めばわかるので読めばいいと思います。読むと気が狂うと言われるそうですが、狂いません。
キャッチコピーを考えた人は、どういう意味でそんなことを言い出したのでしょうか。知恵袋などで、内容はどんなものかを質問しているような人がいますが、まずは自分で読んで、わからないポイントを質問した方がいいでしょう。「どんな内容ですか?」という質問はナンセンスです。きちんと読んで内容がわからない、というのは、まだ力が追いついていないというだけで、愚かということではありません。読めばわかるのに、それをしないのは、自らを愚者だと宣言しているようなものです。
結婚の偶然 (犀の角)
犀の角のようにただ独り歩め
スッタニパータ「蛇の章」
自称アーティストなどがカッコをつけるために引用するのは、ほとんどが「音声に驚かない獅子のように、網にとらえられない風のように、水に汚されない蓮のように、犀の角のようにただ独り歩め」という箇所でしょう。「それだけのポリシーをもっているぞ」という折れない心の表明かのように都合よく引用されます。
そうして、イベント事などをし終わった後の飲み会で思い返してみるとよいと思います。この章には「集会を楽しむ人には、暫時の解脱に至るべきことわりもない。太陽の末裔のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め」とも書いてあることを。
「二次会だ!」といって、カラオケなどに向かう途中思い返してみましょう。「世の中の遊戯や娯楽や快楽に満足を感ずることなく、心ひかれることなく、装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め」
そして自分のファンだという人に言い寄られても「実に欲望は色とりどりで甘美であり、心に楽しく、種々のかたちで心を攪乱する。欲望の対象にはこの患(うれ)いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。これはわたくしにとって災害であり、腫物であり、禍であり、病であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め」と、あることを。
悲劇対喜劇
その昔、読書嫌いだった頃、夏休みに無理やりに本を読まされた記憶がある。国語が嫌いで嫌いで、本アレルギーにも近い状態だった。
畳の上で寝転び、クーラーもつけず小説を無理やり読んだ。素麺と西瓜が似合う和の空間は何か身軽さを与え、抵抗感を拭うようにして僕に本を取らせた。
スイカと扇風機と文庫は、よく合います。
B層の研究
読書に意識が向いてきたので、図書館に行きました。
今まで読んだ本の8割は図書館から借りた本です。古本市場などでは一気に50冊くらい買ったりします。普通の本屋さんで買うのは数%です。で、借りた本でも良い本は改めてアマゾンなどで買ったりします。
先日の記事で「B層戦略の対象」などというワードを使いましたが、その直後です。たまたま、適菜収さんの「日本をダメにしたB層の研究」という本が目にとまりました。図書館でね。
買う本が決まっているなら、アマゾンでもいいですが、やはり書店や図書館には「偶然の出会い」がたくさんあります。タイトルばっかり眺めていても楽しいですが、その場で中身や目次を仔細に確認できるのがいいですね。
総員玉砕せよ!
「水木しげる 魂の漫画展」に行った時に知ってその場で買いました。あとがき「あの場所をそうにまでして…」で記されているように、水木しげる氏の実体験に基づく「ほぼノンフィクション戦記物」である「総員玉砕せよ!」。昭和二十年三月三日、南太平洋のニューブリテン島バイエン(実際はズンゲン)における日本軍将兵たちの運命です。物語は昭和十八年末から始まります。
主人公の丸山二等兵の意識の低さが、「ほぼノンフィクション」の物語に、よりノンフィクション感を出しています。
これが人間か
プリーモ・レーヴィ著「これが人間か」には、彼が体験したアウシュビッツ強制収容所(アウシュヴィッツ第三強制収容所「モノヴィッツ(ブナ)」)での経験が綴られています。
なるべく感情的にならずに、感情を表現することを慎みながら事実と人間というものに対する思索が綴られているこの著は、第二次世界大戦やナチスドイツについて知るというようなことを主題としなくても、人間の苦痛や野獣的要素、文化的・文明的ということを含め、人間とは何かというようなこと、そして自由意志や狂気について考えるに良い問いかけをふんだんに含んでいます。
最も重要なのは、ナチスドイツやアウシュビッツ強制収容所の歴史的事実を単に知るということより、人間の本質や社会の中で起こりうる「縮図のような構造とその要因」を見逃さない理性を磨くことであると思います。
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